修験道(山伏)とは何かー日本人としての生き方・人格陶冶の道【体験編(熊野)|Vol.2】

豊かな島づくりの豊嶋です。

前回こちらのブログにて、「修験道とはなにか」をテーマに概要を記載させて頂きました。
修験道(山伏)とは何かー日本人としての生き方・人格陶冶の道【概要編|Vol.1】

今回は、過去体験で参加した「熊野」について気づいたことを書いていきたいと思います。
3年前の体験ですので、当時を振り返りつつ、今の私が想うところも含めて記載していきたいと思います。

今回も少し哲学的な内容なので、トップ・リーダーの方や、そういったことに関心のある方は是非ご覧下さいませ。


熊野古道の修験道体験で気づいたこと、感じたこと

石の上に座り瞑想 ー人は自然界の一部である

初日は那智の滝の前で、石畳の上にただ座り、自由に瞑想する時間がありました。

自然の中にただ身を置き、身を委ねる時間はとても心地の良いものでした。実際3年ほど経った今でも、心地よかった感覚の余韻は残っています。

修験道は、「山岳・自然信仰」がベースの行です。自然の中に入り、自分の五感を使って行に臨んでいく。本格的な修験道に行く前の最初の行の時間。それは穏やかな時間であり、大変だった行ではありませんでしたが、修験者の本質というものを、感じさせていただいた、そんな時間だったように思います。


一心不乱 ーお経を唱える

実際に山に入っていく中で、必ず「お経を唱える」時間があります。
参加する迄の私は、人生でも数えるほどしか御経を唱えたことがありませんでした。(ほとんど記憶にないぐらい)

しかし、「現代の修験道」においてはお経を唱えないことはありません、むしろかなりの数お経を唱えます。2日間だけでしたが、何十回と唱えたように思います。

慣れていない最初は、般若心経や真言(マントラ)を唱えることは、かなり抵抗がありましたが、この御経を唱えていくと心が定まる感覚がありました。

といいますか、唱えている時間というものは「全身全霊」にならざるを得ず、余分な思考(雑念・妄念)が入り込む余地がなかったように思います。一所懸命にやっていれば、雑念・妄念といった、自分の私心や我欲の入り込む隙がない、というのが自身の気づきです。

お経・真言を読み上げることを通じて、大変大事な気づきを得ることができたように思います。人生・仕事にも生かしていける自然界・人間社会の原理原則なのかもしれません。


甘えすぎる人生の末路 ー枯れた大きな木と水

山の中を歩いていると、水辺に大きな大木が横たわっていました。
先達の方が、「あの大木は、水辺に根を張り簡単に水分を吸収出来ていたから、根が腐って倒れてしまった、人間も自然と同じ」と仰っておられました。

常に水がある場所だからこそ、根が腐り内部が腐って、結果倒れてしまったようでした。

確かに、人も自然界の一部である以上、自然現象から学ぶこと、人間社会においても当てはまることは多々あると考えています。

仮に、「常に水がある場所=甘えた環境」と考えた場合、それに胡坐をかいていれば、いつか自分という人間が腐ってしまうのかもしれません。

今の時代は、「厳しさ」があまり求められない時代になってしまっています(もちろん権力を過度に行使するパワハラはだめです)が、必要に応じて一定の厳しさ(愛情をもって、叱る等)というものは、人間性を育む上で、大事なものだと私としては感じる次第です。


大自然は個性(長所)が活かされ合い調和する

大自然の中を歩いていると、ふと「ああ、自然って本当に美しいな~」としみじみと心で感じる瞬間がありました。

それはなぜなのか考えましたら、やはり木も花も岩も苔も土も、全てがそれぞれ個性を発揮して生きている。また、自分だけが生き抜いていこうとする邪な我欲というものが一切なく清らかであり、それぞれの持ち場で一所懸命に全うしている。

それによって、一切のものに無駄なものが感じられず、全てが活かし活かされ合い、見事に調和している。

こういった自然界の現象、原理原則に沿っていけば、人間社会、会社組織もうまく回っていくのではないかなと感じます。

理念やビジョンの共有を前提として、1人1人の長所が伸展・発揮される文化が育まれている組織は、社員が生き生きとして定着率も高く、結果としての業績も伸びていくのではないかなと思う次第です。


自然の有難さ ー太陽は「たのし」「面白い」

2日目の朝、早朝から真っ暗闇の山の中を歩きます。とても寒いし、足元も見えづらい(ライトはありますが)ため一抹の不安を抱えつつ、一歩一歩山の中を歩いていきました。

すると、次第に夜が明ける。光が差し込み、どんどん明るくなっていく、太陽の光が辺りを照らしていく。

私含め、寒くて凍えそうにしていた行者はみな、自然と太陽の方へと手を伸ばし、手を合わせて拝み、拍手、笑みがこぼれる。「いやあ、温かい」「本当に有難い」と感謝する。

日本人は縄文古来より、大地を照らしてくれる太陽を拝んできました。

日本語の「楽しい(たのしい)」の語源は、「手延し(てのし)」とも言われ、また「面白い(おもしろい)」は、太陽の光で「面(おも)、顔が白くなる」が語源とも言われています。まさに、古事記神話の天岩戸隠れの描写さながらです。

自然から離れた生活をしていると、「太陽があることが有難い」と思う瞬間は、あまり多くはないと思います。

でも、日常にある普段は気づいていない沢山の有難さを見つけて生きること、楽しみを見つけていくこと。そういう生き方が今問われているのかなと思います。


有難さ(感謝)を持ち続けることは難しい

あれほど早朝「さむいさむい」「暗い」と言って、日の出に喚起し感謝したのも束の間、日が高くなってくると今度は「あついあつい」「まぶしい」と思うようになりました。

人間一瞬は有難みを抱いても、その気持ちを持ち続けることは、容易くないなと、思う次第です。

だからこそ、定期的に神社やお寺に参拝したり、お墓参りをしたり、意識的に「清く正しく美しい心」に立ち戻る瞬間を作ることが大事だと思います。

この修験道においても、非日常的な中で、大切なことに気づき、立ち戻れる1つの行(手段)なのだと思います。


仲間と息を合わせる ー人と人が共に生きる

修験道では山中を歩く際に仲間と一緒に、「サンゲサンゲ、六根清浄」と唱えながら一歩一歩、歩みを進めていきます。

声に出すことで、自分の氣力も体に充満すると共に、「みんなの息、心が合わさって1つになる」と感じる瞬間が多々ありました。そして、自分1人で行をやっているのではない、「仲間とともに」という感覚が強く生まれます。

日本人は元来、人と人が結びつき、みんなで協力し合って力を発揮する文化がありました。田んぼでも、1人ではなく地域の仲間と協力しながら田植え、稲刈りを行います。

田舎暮らしにおいては、1人ではできないことが山ほどあり、みんなで助け合う生き方は当然の成り行きだったのだろうと思います。

そういった日本人の精神の根幹は、聖徳太子の憲法十七条の「和を以て尊しとなす」に込められていると思います。

一方、近現代において、都市化が進むにつれて、「個人主義」、「人と人の分断」が進む中で、共同体意識や仲間意識が少し薄れてきています。

孤立と分断によって、生きる意味を見失う人も大勢増えている世の中ですが、だからこそ「声を掛け合い、共に生きる」「共同体」といった日本古来から文化は再興されるべきものだと、今当時を振り返ってみてそのように感じます。


一心不乱 ー身体の疲れ、悟りの道

特に修行を始めた序盤の方では、みな体力・気力にみなぎっているので、どこかみんなの意識が合っていない、バラバラになる瞬間があったように感じます。

しかし、行も終盤に差し掛かると、徐々に疲れがピークとなります。すると不思議なことに、みんなの意識レベルが1つに合わさってくるのを感じました。

「みんな疲れているけど、みんなで最後まで一所懸命に歩きぬこう」という感覚が私には生まれました。疲れによって、自我が薄れ、純粋な気持ちだけが残っていく感覚。

「一心不乱」というお話を上述しておりますが、身体というものは人間にとって不可欠である一方で、「純粋な心」を保ち続けるという意味においては、時として邪魔になることもあるのかなと感じます。

禅の言葉で、「身心脱落」とあります。それは自分の身体と心(感情)がない状態、つまり「自我意識(我欲、私利私欲)」がない状態が、悟りの境地に至る道ということです。

まさに、修験道においても、一心不乱にお経を読んだり、また一所懸命に歩き疲れていく過程の中で、自我意識が薄れ、自然さながら・かんながら(惟神、神さながら)の境地に至るのかもしれません。

仕事でも遊びでも何であれ、手を抜かず、疲れるほどに一所懸命に行うこと。中々自分も出来ていませんが、大事なことだろうと考えています。


あえて厳しい道をゆく ー人間とは何か?

行を進め自然の中に身を置き続ける中で、人間とは何か?動植物との違いは何なのか?を考えるようになりました。

人間は万物霊長類の長ともいわれます。それはなぜなのだろうかと。自分なりに考えた結果、

「敢えて、自己の本能(私利私欲、自我意識)に抗うこと、困難な道を行くことで自分の魂を磨き高めようとする、そして利他に生きようとする。その行為が尊く美しいから」

だと思うに至りました。

山の中を歩いていた時に、足元が悪い古道と、川を挟んですぐ隣には整備された歩道・車道がありました。先達は、「どちらを選ぶも人生。厳しい方も楽な方でも」と仰っていたのが印象に残っています。

行者の多くはそれを聞き、誰一人として楽な道(歩道・車道)を選んではいませんでした。

菩薩の道は、「上求菩提 下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)」と言われますが、自分に厳しく弛まぬ努力で人格向上に励み、そして周りの人を助け救っていくということです。

もちろん、自然界は無駄なものはなく「多様性」で成り立っていますので、人間以外の動物も尊いのですが、自分の本能に従うことが、心(感情)の大半を占めています。

また植物も私心なく清らかではありますが、意志を持って他を利していこうとはしていません。

一方人間の中には、不十分な自己を反省し、鍛えるために敢えて艱難辛苦に身を置き、利他に生きようとする人もいます。

この生き方こそ、人間に与えられた使命・天分であり、だからこそ万物霊長類の長と言われるゆえんだと感じる次第です。


さいごに ー本当の修業場所

2泊3日の短い修験道体験ではありましたが、沢山の学び・気づきを得ることができました。

修験道の世界は、非日常的ではありますが、一方で日常生活や、仕事の中で大いに活かされる学びに溢れています。

そして、本当の修業とは、「日常の中にある」ということ。

禅になりますが、「直心道場」という言葉があります。

自分の心がけ次第で、どこでも道場になるということ、すなわち日常生活も自分次第で心を高める道場になるということ。

今回学んだこと気づいたことを、何か一つでも実践し、自分の心・魂を磨いていくこと。人格を陶冶すること。

修験道の中に、日本人としての生き方や、人格を陶冶するエッセンスが詰まっている、そう感じた体験でした。

当時、会社経営の中でこういった稀有な経験をさせて頂けたことに感謝の気持ちを持ち続け、日々の人生に生かしていきたいと思います。

次回は羽黒山での体験について書いてみたいと思います。

豊かな島づくり
豊嶋

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