"曹洞禅"とは何か? ー道元禅師開山「永平寺」での修行体験を通じて
豊かな島づくりの豊嶋です。
仕事を辞めて独立開業するまでの間、各地を旅してまわったり、勉強をしたり。「日本の伝統文化・精神」に関する学び、「志・人格陶冶」に繋がる学びに時間をかなり割いておりました。
今回は2025年7月7日~8日の1泊2日の坐禅合宿に参加して参りましたので、体験や講義を通じて、学んだこと・気づいたことを記載していこうと思います。
令和7年7月7日に参加となりまして、縁起が良い日に参加することができて良かったです。

はじめに
坐禅の宗派について
大きくは「臨済宗」と「曹洞宗」があります。本稿ではあまり細かな説明をすることは本意ではありませんので、簡単ではありますが、それぞれの違いを書かせて頂きます。
また、厳密には「黄檗宗(おうばくしゅう)」という流派もあるようですが、過去1度もこちらの流派で坐禅を組んだ経験がありませんので、そういった中ではあまりお伝えもできませんので、こちらも割愛をさせて頂きます。
臨済宗
開祖は「栄西禅師」です。臨済宗の坐禅は、主に「武家階級」を中心に広まっていきました。
また「公案」があるのも特徴で、これは師匠から弟子に対して、悟りを開くために与えられる問題になります。師匠から弟子に対して、「喝(かつ)」があること(大声で叱ること)や、警策(きょうさく)で叩くといったことも行われています。
2か月に1回、臨済宗の全生庵(東京谷中)で定期的に坐禅を組んでいるのですが、以前ご住職が参加者の1人に対して、「ふらふらするな!!」と、一喝を入れたシーンに遭遇しました。(その方は足が痛くなり、モゾモゾしていたようです)かなりの迫力で、禅堂内が雷が落ちたかのように響き渡りました。自分自身が叱られたような心境で、気が付けば背筋がピンと伸びました。
また警策で叩くと聞くと「痛そう」と思われるかもしれません。しかし、意外かもしれませんが、「バシッ」という迫力のある音とは裏腹に、打たれた本人としては実はあまり痛くありません。
曹洞宗
開祖は「道元禅師」です。こちらの宗派は私の前職の社長濵田総一郎氏が、師匠に教わっていた流派です。社長はよく「只管打座(しかんだざ)」と仰っておりましたが、ただじっと座る。ただただ座る。こういった特徴があります。
「一寸座れば一寸の仏」という禅語があります。これは、一寸(線香の長さ。短い時間のことを指す)だけでも、禅を組めば、その姿勢それそのものが、すでに「仏の姿」であり、「仏の心」であるという意味です。曹洞宗は、臨済宗のような「公案」による悟りの道はありませんので、「ただ座る」ということに重きを置いているのが特徴だと思います。
また、臨済宗の坐禅は、参加者同士が向かい合って座る(対座と言います)のですが、曹洞宗では「面壁」と言いまして、壁を向いて座るのも特徴です。
永平寺について
今回修行させて頂く福井県にある「永平寺」。ここは曹洞宗の開祖道元禅師が開山された場所であり、日本中から修行僧(雲水)が集まる根本道場であります。厳しい修行場としても有名です。

なお、永平寺に来る修行僧の90%近くはお寺の息子とのこと。健康診断、履歴書、所属する住職の許可書が提出されますが、基本的には永平寺の修行に耐えられる覚悟があれば門戸は広く入山が可能とのこと。
毎年、冬の寒い時期に、山門の前で先輩修行僧から覚悟を問われるのは風物詩になっているようです。(興味がある方は、恐らく探せば動画があると思いますので、ご覧ください)
なお永平寺には常時約150名近くの多くの僧侶、修行僧が在籍している模様です。
道元禅師開山の"永平寺"で坐禅修行
そしてこの永平寺にて坐禅修行に参加させて頂きました。

参加させて頂きましたが、曹洞宗においては、日常的な動作1つ1つに、非常に厳格な作法があることを実感致しました。まずは、学んできた坐禅の作法についてご紹介させて頂きます。
待機・歩く際の作法
まず最初に、基本となる「待機・歩く作法」についての説明がありました。待機・歩く際には必ず、「叉手(しゃしゅ)」を行うとのことでした。左手の親指を握り込み、右手でそれを包み込むように覆い、みぞおちのあたりに当てます。

また、合唱についても作法があるようでして、「中指が鼻の高さの位置」、また顔から拳1つ分離すのが曹洞宗(他の宗派も同じかは不明です)の作法とのことです。
坐禅の作法
次に坐禅に関する説明がありました。こちらも1つ1つ細かな作法があり、覚えるのに少し苦労しました。
事前準備
作法とは少し異なりますが、太ってお腹が出ると、真っすぐな姿勢ができなくなり、また足も太って組めなくなるので注意が必要とのこと。また、日ごろからストレッチをして関節や筋肉を柔らかくしておくように、とのお話がありました。
禅堂入室~座るまで
参加者が坐禅を組む禅堂と、実際の僧侶が坐禅を組む禅堂は場所が異なっておりました。なお、実際の僧侶においては、禅堂が坐禅を組む修行場であると共に、食事・睡眠をとることも兼ねております。その場所は、わずか一畳。横になって寝れば一杯になるスペースです。

禅の言葉で、「足って半畳、寝て一畳」というものがあります。禅に学ぶものは、裕福な生活は必要なく、立てるスペース(畳の半分)・寝られるスペース(畳一つ)があれば充分である、という意味です。
最初は、「ここで修行し、食事し、寝るのか」と、唖然としました。修行僧(雲水と言います)の方々の厳しい生活の実態が明らかになりました。
なお、禅堂は永平寺の中においては、「三黙道場」のうちの1つになります。つまり、一切の私語は慎まなければなりません。ちなみに、お寺の中で、禅堂以外に一切の私語を慎まなければならない場所は、「東司(トイレ)」と「浴室」になります。トイレもお風呂も、修行の場なのですね。
禅堂に入りましたら中央に「文殊菩薩」が祀られています。「三人寄れば文殊の知恵」の言葉にもあるように、「智慧の仏様」になります。坐禅修行を通じて、仏の智慧を得ること、悟りの境地に至ること、そのために置かれているのだと思います。
そして、文殊菩薩の前を通る必要があるのですが、その際には「合唱をしたまま」素早く通り抜けます。人の前を通るときは、片手を前に出して、「ちょいと失礼」と通り抜けることがあると思いますが、仏様の前では、そうではなく謙虚・敬虔な姿勢で以て前を通ります。
そして柱が自分の左側にあるので、お尻を禅堂中央にある文殊菩薩に向けないよう、左足から跨いで禅堂の中央部へと入っていきます。禅堂の内部は、白線が引いてあり、そこに来た際には必ず「叉手のまま一礼」を行います。
そして、自分が座る畳の場所(これを「単(たん)と言います)に到着しましたら、自分が座る場所への敬意を込めて合掌一礼し、また反対側を向いて(他の方と向き合います)合掌一礼します。
座る準備
坐蒲(ざふ。坐禅用のざぶとん)が置いてあります。白い線が縦に引いてあるのですが、そちら側が座る際には後ろ側(お尻側)になります。白い線が見える状態で坐蒲が置いてありますので、それをスッと逆にして(つまり、自分の正面には白い線が見えない状態にして)、単の端まで少し手前に引き寄せます。

そして、スリッパを履いておりますので脱ぎ、置いたままにせず、石段に立てかけます。そして、後ろを向いた状態で坐蒲に座り、両手をついたまま、後ろにお尻を滑らせながら座ります。
左手で坐蒲、右手で畳をついて時計回りに回転する。(この時点で足と手を組んでから時計回りに回転して面壁するのが作法とのことですが、慣れない場合は先に回転して、面壁し、その後に足と手を組むのも初心者はありだそうです)
足と手の組み方
ここまでは、あくまで入室~坐蒲に座るまでの作法です。沢山あり、私も戸惑いました。
次にいよいよ坐禅を行うための、「足と手の組み方」になります。
坐禅は、「調身(ちょうしん)、調息(ちょうそく)、調心(ちょうしん)」と言われますが、大事なことは、身体をただす「調身」です。身体が真っ直ぐになっていないと、息も整わず、結果、心も整わないからです。
また、心を整えたい、でも形のない心をどう整えるか? まずは、「形あるものを整える」というのが禅の考え方です。そして、日本の道の文化においては、共通して形・型というものを重んじますね。
身体のどこから整えるか。まずは、足から。何事も足元、土台を整えることから始まります。
足の組み方
足の組み方には、大きく2つ「けっかくざ(結跏趺坐)」と「はんかくざ(半跏趺坐)」があります。
「けっかくざ(結跏趺坐)」は両足を交差させる組み方、「はんかくざ(半跏趺坐)」は片足だけを組む組み方です。「けっかくざ(結跏趺坐)」はより安定し、仏教で最も基本的な座り方とされ、「はんかくざ(半跏趺坐)」はその簡略版で、身体が硬い人向けとされています。
というのが一般論なのですが、この「はんかくざ(半跏趺坐)」でさえ難しい。身体が固い人であれば、胡坐をかくので精いっぱいになると思います。
なお、「はんかくざ(半跏趺坐)」の場合は、右足が下、左足が上に来るようです。ですが、組みやすい姿勢が、それよりも大切なようですので、逆の方がよい場合は、それでも問題はないようです。
そうして、「お尻、右膝、左膝」を地面にどっしりと着けることで、坐禅を組む土台を固めます。私も坐禅歴3年ほどですが、まだちゃんと組めておらず、上手く組めないと、中々膝が地面には着かず、不安定になります。
上半身の姿勢を正す
首筋と、背中を真っすぐに。但し、あまりに背中を緊張しすぎなくてもよいそうです。軍隊の影響もあり、禅も一時的に影響を受け、背中をビシッと緊張させ真っすぐにするようになったのですが、あまり緊張しすぎると、腹式呼吸が逆にしづらくなるようです。
そして左右のバランス調整は、へそ下3cmにある「丹田」に意識を合わせて、そこを中心にして左右揺振(さゆうようしん)。その時には、鼻から吸って口から吐く。それを1回するごとに、丹田からこぶし1つ分、意識を上にして、また同じように左右揺振(さゆうようしん)しながら呼吸をする。これを繰り返して、首のあたりまで意識が上がれば、左右のバランス調整は完了とのこと。
この辺の姿勢の考え方や調整方法は、私もいくつかのお寺で坐禅を組みましたが、宗派ごと、お寺ごとの考え方が色濃く出そうな部分です。
印象的な道元禅師の言葉
そして、お坊さんに教えて頂き、印象的な道元禅師の言葉をご紹介したいと思います。
左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。
つまりは、左に側(そば)たち(情報に翻弄され)、右に傾き(人よりも際立って感情で心が揺れ動き)、前にくぐまり(どうせ私なんて・・と卑屈になり)、後ろに仰ぐことを得ざれ(偉そうにふんぞり返る)。そういったことがないように、人として真っすぐに。という意味だそうです。
とても、深く印象的な言葉でした。今の時代は、情報の渦に飲み込まれ、感情の波に揺れ動き、人と比べて卑屈になり、また一方で偉そうに生きる。
そういう人も増えているのかもしれませんが、いつの時代も、どんな場所でも、「人として真っすぐに生きる」これこそが、最も大事であり、また美しい生き方なのだろうと思います。
手を組む
手は法界定印(ほっかいじょういん)を結びます。足のかかとの上に、手の甲が合わさる方が身体の構造上、組みやすくなります。ですので、上記に書いた基本の足組みの場合(右足が下、左足が上)は、右手が下、左手が上になります。(1度この形をされてみると、「なるほど確かにフィットするかも」、とお分かりいただけるかと思います)
なお、この法界定印の組み方は、お釈迦様と違って、我々はまだ修行の身なので、お釈迦様とは同じように印を組まない、という意味もあるとのこと。
ですが、足の組み方を逆にした場合、手の組み方もそれに合わせる(お釈迦様と同じ手の組み方になる)形となります。姿勢が定まらないと、呼吸も定まらないので、身体が一番しっくりくることが優先となります。
目線を定める、呼吸をする
目線は斜め45度下に向ける。(1点を観ようとすると意識がそこに向けられ囚われるので、ただそこに目を置くイメージ)目は閉じず、自然と開きます。
そして口を閉じて、舌は上顎をつけます。(口の形をこのようにすれば、意識せずに自然と呼吸ができるとのこと)
基本的には、腹式呼吸で鼻から吸って鼻から吐いていきます。イメージとしては、地面からお尻で吸って、吐くときには、お尻から坐蒲を経由して地面に戻すようにとのことです。
人間は寝ているときにはみんな「腹式呼吸」になっています。深く呼吸をしている、だからこそ睡眠によって心が整っていくとのことでした。
意識の置きどころ
なお、この呼吸は生命維持のために無意識でも我々は行うことができます。
ですが、その呼吸にあえて意識を向けることが、心を整えるためには大切です。呼吸だけに意識を向ければ、頭の中が連想ゲームのように色々と考えが巡らされることはないと。
また人間には五感がありますので、坐禅をしていても目は見えているし、耳から音が聞こえてもいる。なので意識は常に働いてはいるが、呼吸だけに意識を向け集中しており、何かに囚われてはいない。
この「意識はあるが、頭であれこれと考えてはいない状態」これが理想だということです。
それでも坐禅に集中できない時はどうする?
ご住職曰く、慣れていないと足を組んでいて当然痛くなりますと。「ああ、痛いな。痛いな。なんで坐禅に参加しているのだろう」と考え始め、そうすればその考えにどんどん囚われ、益々痛くなると。なので、痛いなと思ったときにどうするか。その時に改めて「呼吸だけに意識を向ける、呼吸に集中する」こと。それが思考に囚われないコツなのだそうです。
理屈上はそうなのだと思いますが、未熟な私は呼吸に意識を向けようとしても、気づいたときには、あれこれ無限の連想ゲームになってしまうことがあります。まだまだ修行が足りません。。
食事も修行の1つ
坐禅の修業ではあるのですが、精進料理を食べることも大きな修行の1つです。
なお、精進料理の「精」の字は、玄米が人の手によって搗かれ精米されて白米になること、つまり「努力」を示す。沢山の人の手や、天地自然の恵みによってできたごはん。最後に自分がしっかりと頂くことで精進料理は完成する、と。そういう意識をもって下さい、との教えを頂きました。
①:食べる前に感謝の気持ちを込めて五観の偈(ごかんのげ)を唱える。
・功の多少を計り、彼の来処を量る:食事ができるまでの多くの人々の労苦や、食材が運ばれてくるまでの過程に思いを馳せ、感謝する。
・己が徳行の全欠を忖って供に応ず:自分がこの食事をいただくにふさわしい、人としての行いをしているか反省する。
・心を防ぎ、過を離るることは、貪等を宗とす:貪り(むさぼり)、怒り、愚かさなどの煩悩に心を奪われず、心を清らかに保つ。
・正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり:この食事は、体を養うための大切な薬であると心得る。
・成道の為の故に、今この食を受く:仏道修行(道業)を成し遂げるために、この食事をいただく。
②:机に対して拳1つ分空けて座る。
③:1つ1つの料理への敬意と感謝を込めて両手で器を持ち、顔の前に持ってきてから食べる。(その際お箸は親指と人差し指で挟んで持つ)
それ以外にも、
- 食べるのが速い人は遅い人、遅い人は早い人に極力合わせて食事をする。(目配り、気配り)
- お箸を置く際は、味噌汁の上に箸先が右下に向くように置く。
- お箸は最後に洗うので、必ずお茶は飲み干さずに残しておく。洗った後に手で口を隠しながら舐めて、箸袋にしまう。
といった永平寺での食事作法を教わりました。
日常生活に戻った今、こうやって教えて頂いたこと全てが出来ておらず恥ずかしい限りではあります。
永平寺で修行をする前から、「五観の偈(ごかんのげ)」は唱えて食事をしていたのですが、今ではそれを唱えることがあまりできていません。ですが、「いただきます」と「ごちそうさま」はしっかりと手を合わせ、声に出して言うようにはしております。
また、以前は食事中に動画を見たりして、目の前の食事に集中していないこと(頂いた命に向き合っていないこと)が多々ありましたが、食事中には動画などを見ながら食べるようなことは、極力しないように意識しています。
むすびに変えて
今回永平寺での修行体験をさせて頂きましたが、修行僧の修業に比べれば、厳しさはほんのわずかで、あくまでも永平寺のことを知るきっかけになったに過ぎません。
しかしながら、令和の今の時代においても、人としての道を追い求め修行をしている方々の日常が少しでも垣間見え、大変勉強になりました。
さわりではあるものの身をもって体験させて頂き、自分が想像した以上に坐禅やその他作法が厳格であり、ここ永平寺が修行道場であることを理解することができました。毎日この厳しい修行を欠かさずにやることはすごい(自分にはできない)と素直に感じました。
また、坐禅に関しては改めて、「身体の姿勢が肝」であり、それがないと適切な呼吸(腹式呼吸)ができないことを改めて強く認識しました。武道でも、「姿勢が肝」と言われますが、日本人の道において、姿勢が何よりもまずは大事なのだと実感することができました。
なお、今回はライトな1泊2日の体験修行ではありましたが、修行僧(雲水)と全く同じとはいかないまでも、出家せずに生きている一般人を対象に、もう少し厳しい修行体験希望者向けがあると嬉しいなと感じました。人の道、日本人の道を追い求める身として、もう少し踏み込んだ世界を見てみたいと感じました。
余談ではありますが、朝の法要にも参加させて頂き、新しい修行僧、先輩修行僧、僧侶といった多様な方がいらっしゃいましたが、新しい修行僧の方は年齢的にも10代後半~20代前半(一部40代、50代もいるらしいが)で、早朝のお勤めのため、かなり眠そう(目がトロンとして、あくびを殺しつつ)にされていて、煩悩と戦っており、一方修行年数を積み重ねた高い僧侶は凛とした表情や姿勢で、修行年数や人生経験の差が対比して見られたのは面白く興味深かったです。
私も人間修業の身でありますが、年を重ね、いつか人として立派でありたい、そのように生きていきたいと改めて感じました。そういった求道への決意を胸に、本稿を締めさせていただこうと思います。ご覧頂きまして誠にありがとうございました。
豊かな島づくり
豊嶋
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