明治維新の大立役者「吉田松陰」とは、どんな人物なのか。

今回は過去の偉人をご紹介したいと思います。

偉人と聞くと、どこか自分とは違う“雲の上の存在”のように感じるかもしれません。
ですが、偉人と呼ばれる方々も同じ人間です。時代背景こそ違えど、若い頃には私たちと同じように、悩み、苦しみ、葛藤を経験しながら生きていました。

偉人・先人の生きざまに触れ、その人生を追体験することで、
今、悩んでいる自分の気持ちを少し奮い立たせたり、
これから生きていくうえでのヒントや指針をもらえることがたくさんあると考えています。

難しくなりすぎないよう、できる限り分かりやすく書いていきますので、肩の力を抜いて読んでもらえたら嬉しいです。

今回取り上げるのは、恐らく一度は名前を聞いたことがあるであろう「吉田松陰先生」です。
吉田松陰先生は、激動の江戸時代末期に生きた思想家であり、同時に「社会変革者」でもありました。

先生は「人を育てること」で社会を変えようとした人物です。
その教えを受けた弟子には、高杉晋作、伊藤博文など、その後の日本を動かした多くの志士たちがいます。

「学問・教育によって人は変わるし、社会も変わる」
そのことを自らの人生で体現したのが、吉田松陰先生でした。

では一緒に、その生涯をたどっていきましょう。

10代、20代の若い方向けに分かりやすく書いてまいりますが、リーダーの方にも参考になる点があると思います。

ぜひご覧くださいませ。


明治維新の大立役者「吉田松陰先生」の生涯

吉田松陰先生は、長州萩城下で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。
その後、山鹿流兵学(戦でいかに負けずして勝つかという兵法)を教える家である吉田家の養子に入ります。

幼少期〜20歳頃までは兵学を学び、
20代前半は日本各地を旅して学び、
25〜30歳頃が活動のピークでした。

ただ、この「ピーク」のうち、実は半分近くは「護送中(牢屋へ連行されている期間)」か「牢屋の中」でした。
つまり、自由に動けたのは2年ほどしかなかったにもかかわらず、後に明治維新を成し遂げる人材を多数生み出したことになります。

「吉田松陰先生なくして明治維新はなかった」と言っても過言ではありません。
そのような明治維新の大立役者である吉田松陰先生の人柄、人生に触れていきましょう。


21歳 遊学中に「阿芙蓉彙聞」を読む

21歳のとき、長崎に遊学していた吉田松陰先生は、一冊の本と出会います。
その本の名は「阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)」。

そこには、「アヘン戦争がなぜ起こったのか」が書かれていました。
そこで先生が知ったのは、「欧米列強であるイギリスの残酷さ・謀略」でした。

当時、イギリスは中国から陶磁器や紅茶を大量に買っていましたが、
中国に売れるものが少なく、貿易は赤字。
銀が中国へ流出する状態になっていました。

そこでイギリスは、植民地インドで栽培したアヘン(麻薬)を中国へ密輸し、
インド側にアヘン税を課すことで、銀をインド経由で取り戻そうとしたのです。

結果、中国では麻薬が蔓延し、多くの人が健康被害に苦しみました。
中国側はアヘンを焼却するなどして取り締まりましたが、それがきっかけとなり、イギリスとのアヘン戦争に発展します。

その背後にあった「列強イギリスのひどい謀略」を知った吉田松陰先生は、
「いずれ日本も同じように狙われるのではないか」と強い危機感を抱きました。

のちに弟子となる高杉晋作は、上海に遊学した際、アヘン戦争後の中国が列強に頭を下げている姿を目の当たりにし、
『このままでは日本も同じ道をたどってしまう』と感じます。

そして吉田松陰先生亡き後、攘夷決行を決意し、1863年のイギリス公使館焼き討ちへとつながっていきました。
ここにも、吉田松陰先生の教えが生きていたと言えるでしょう。


22歳 海防を学ぶため東北へ「亡命」

22歳の頃、江戸で学んだ後、日本を守るために東北へ旅に出ようとします。

「日本は海に囲まれた国であり、海こそが肝になる。海防を学ばなければならない」
そう考えた吉田松陰先生は、東北各地を歩き回る決意をします。

当時、藩をまたぐ旅は、今でいう「国外に出る」ような感覚で、藩の通行許可(現代のパスポートのようなもの)が必要でした。
吉田松陰先生も長州藩に申請していましたが、出発予定日までに許可が下りませんでした。

しかし東北へ向かうのは、吉田松陰先生だけでなく、他藩の同志たちも含まれた一行です。

『自分のせいで出発が遅れれば、長州藩の評価が下がってしまう』
『一度交わした約束は必ず守らなければならない』

そう考えた吉田松陰先生は、通行手形がないまま、いわば亡命という形で東北へ向かいます。
ルールは破ってしまったものの、「人との約束は命をかけて守る」という、人としての義理堅さがうかがえます。


24歳 黒船来航と、海外をめざした密航未遂

24歳の頃、ペリーの黒船が浦賀に来航します。
この頃、吉田松陰先生は「佐久間象山(さくま しょうざん)」に学んでいました。

佐久間象山は、漢学(中国の学問)と蘭学(西洋の学問)の両方に精通した秀才でした。
西洋だけを学んでいる者には「人間学(漢学)が足りない」、
漢学だけの者には「これからの時代、西洋の知識・技術を学ばねばならない」と叱ったと言われています。

そんな象山は、吉田松陰先生に対して
「若いのだから、自分の目で海外を見てこい」
とアドバイスします。

吉田松陰先生は弟子の金子重輔とともに、まず長崎でロシア艦に乗船しようとしますが、すでに出航したあとでした。
その後、江戸に戻り、ペリー再来航(1854年)のタイミングで米国艦への密航を試みます。

必死に乗船を願い出ましたが、
「日米和親条約を結んだ直後に、日本人を乗せるわけにはいかない」
「もし君たちがスパイなら困る」
という理由で断られてしまいます。

とはいえ、ペリーは
「これほど熱心な若者を見たことがない。日本は必ず発展するだろう。どうか罪を軽くしてほしい」
と幕府に書簡を送ったと伝えられています。

それでも当時の日本では鎖国中であり、密航は重罪でした。
吉田松陰先生は静岡県下田の牢に入れられることとなります。


25歳 野山獄で始まる“牢屋のカルチャーセンター”

裁きの結果、吉田松陰先生は故郷・長州へ送られ、萩の野山獄(武士用の牢屋)に入牢します。
弟子の金子重輔は、身分の低い町人向けの岩倉獄に入れられました。

野山獄には全部で12室の牢があり、吉田松陰先生が入れられたときには満室。
その多くは、罪人というより「酒癖の悪さ」などで家族に入れられた者たちでした。

侍として生まれながら、役目を果たせず牢屋で日々を過ごすことは大きな屈辱です。
愚痴を言い合い、自分を諦めて生きている者がほとんどでした。

そんな中、吉田松陰先生は1年3ヶ月の間に、およそ600冊もの本を読みます。
当時の本は今より文字が大きく冊数も数え方が違いますが、それでも驚くべき量です。

本の内容に涙し、怒り、心を震わせながら読みふける吉田松陰先生の姿を見て、
他の囚人たちは久しぶりに「人が本気で生きる姿」「熱い心」を目にします。

『そうだ、人間は泣き、怒り、心で生きる存在だった』

ここから、囚人たちと吉田松陰先生の交流が始まります。

囚人同士で得意なこと(書道など)を教え合い、
牢屋でありながら、まるで“カルチャーセンター”のような場に変わっていきました。

吉田松陰先生は孟子などの中国古典の輪読会も開きます。

「場所も人も選ばない教育」
それが吉田松陰先生のすごさです。

牢屋であっても、相手が囚人でも看守でも、
目の前に人がいれば教育できる。

「場が整ったらやる」のではなく、
「今この瞬間にできることをやる」。

言葉だけでなく、行動で示す。
その一瞬一瞬を全力で生きる姿勢から、私たちは多くを学ぶことができます。

野山獄を出たあとの松下村塾でも、同じように講義と対話を続けていきました。


27歳 松下村塾での教育

松下村塾は、もともと吉田松陰先生の叔父・玉木文之進が始めた私塾です。
(松本川と橋本村の間にあったため「松下村塾」と呼ばれました)

「松下村塾=吉田松陰先生が作った」と思われがちですが、実は吉田松陰先生は“二代目”のような存在です。

ここで吉田松陰先生は、山鹿兵学、孟子、歴史など、幅広いテーマで弟子たちを指導しました。

特徴的だったのは、一方的な講義ではなく、
塾生同士に議論をさせたり、得意なテーマについて塾生に講義させたりしたことです。

先生でありながら、塾生と一緒に学ぶ——。
当時としては非常に珍しい、参加型・対話型の教育でした。


29歳 再入獄、そして理不尽な判決

その後、29歳のときに老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)を討とうとした策が発覚し、
吉田松陰先生は再び野山獄へ入れられます。

実際には未遂であり、本来であれば島流し程度の罪になるはずでした。

しかし、大老・井伊直弼(いい なおすけ)の一存で、死罪に格上げされてしまいます。

本来、判決の変更は「罪を軽くする」方向で行われるのが普通でした。
そのほうが幕府の“器量の大きさ”とされていたからです。

ところが吉田松陰先生に対しては、逆に罰を重くした。
これは、幕府そのものの末期症状とも言えます。

井伊直弼の横暴は、江戸幕府の終わりが近いことを暗示していたのかもしれません。


30歳 志半ばでの最期

「かえらじと思い定めし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな」

これは、江戸の牢に送られるために故郷・萩を発つ際に詠んだ和歌です。
もう二度と萩に戻ることはない、という覚悟の歌でした。

萩の町がかろうじて見える最後の場所でこの和歌を詠み、
吉田松陰先生は弟子たちと今生の別れを告げます。

その後、江戸の小伝馬町で処刑。
30年という、あまりにも短い生涯でした。


おわりに

いかがだったでしょうか。
少し難しいところもあったかもしれませんが、できるだけ簡潔に吉田松陰先生の人生をたどってみました。

明治維新期に活躍した多くの志士を輩出した松下村塾。
そこでの指導期間は、わずか1年ほどと言われています。

それにも関わらず、数多くの優れた人物が育っていった背景には、
・祖国を本気で思う心の強さ
・教育への情熱
・知識だけでなく「心と心でぶつかり合う」指導
・弟子一人ひとりの長所・個性を大切にする自由で闊達な場づくり

こうした、さまざまな要素があったのだと思います。

私は、社会問題を解決し、社会を変えていくためには、
「教育こそが一丁目一番地」であり、最も重要だと考えています。

すべては人から始まる。

人間教育は、結果が出るまで時間がかかりますが、
一人ひとりの長所を大切にしながら、
自分の生まれ育った地域や、この日本を守り、良くしていこうと思えるような

「徳」「志」「日本のこころ」をもった若い人たちを
一人でも多く育てていくことが大切だと感じています。

学校現場のような「詰め込み型の知識教育」ではなく、
人としてどう生きるかを学ぶ「人間学教育」を実践していきたい。

今のような激動の時代だからこそ、
未来のリーダー教育が必要不可欠だと信じています。

その信念を胸に、私自身も、志高く生きていきたいと思っています。

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