日本人として生きる、私の朝の生活習慣
豊かな島づくりの豊嶋です。
毎日ではないのですが、極力毎朝ランニングや散歩をするようにしています。今ではすっかり生活の一部となったこの時間は、私にとって一日の始まりであり、日本人として生きている実感を取り戻す大切なひとときでもあります。
情景ー私の朝のルーティーンー
①:借りている田んぼのそばを通り、

②:近所のネコと戯れ、

③:ご近所の方にご挨拶し、
④:神社で参拝し、

⑤:英霊等で供養の祈りを捧げ、


⑥:高台から景色を眺め、

⑦:聖徳太子碑に手を合わせ、

⑧:森と竹林を通り抜け、


⑨:帰宅する
という毎朝のランニング・散歩のルーティーンを過ごしています。
特別なことをしている意識はなく、今ではすっかり日常の作法として身体に馴染んできました。
神社参拝という習慣
神社では、「日頃健康であること」「朝目覚めたこと(生きていること)」「お天気に恵まれたこと」といった、日常の些細な感謝から、「日本が今日も安寧であること」への感謝を伝えています。
また、「日本と世界の平和に貢献する」という自身の志を誓っています。今まで通算でいくら誓ったのか、もうわかりません(笑)。
こうした生活が今では自然な習慣となりましたが、20代前半までは神社に行くこともあまり好きではなく、「感謝をする」ということも進んでやるタイプではありませんでした。戦後の自虐史観教育にどっぷり浸かり、日本人でありながら日の丸にどこかアレルギーを感じ、「日本的なもの」を大切にすることに違和感を抱いていた人間でした。
信仰心を持つこと、手を合わせること、祈りや感謝といった精神的な営みは、むしろ疎ましいとさえ感じていたのです。
そんな私の人生が大きく変わったのが、学生時代にご縁をいただいた泉大津市の南出市長との出逢いでした。南出市長が日々当たり前のように実践されている姿、その後ろ姿から多くを学ばせていただきました。
それ以降、初詣以外の時にも神社に足を運び、「感謝を伝える」「意を宣る(志を誓う)」「誰かの安寧を願う」といったことが、無理なく自然にできるようになっていきました。
神社の本殿には必ず鏡があります。それは「自分の持って生まれた清く正しく美しい心」、本来の自分に立ち返るためのものだと教わりました。
「かがみ」の前で手を合わせ、感謝し祈ることで、魂や心にこびりついた我(が)が落ち、「か"が"み」から「かみ」へと至る――惟神(かんながら)の心に立ち返る。そのように南出市長から教わりました。
また、私は地域を守る氏神様も大切にしています。以前住んでいた地域の神社にも、そして引っ越した今の地域の神社にも、変わらず参拝しています。今この土地で何不自由なく暮らせていることへの、ただ純粋な感謝の気持ちを伝えたいという想いからです。
英霊供養と、過去とのつながり
日清戦争、日露戦争、大東亜戦争で命を投げ打ち、祖国を守り抜いた英霊の御霊が祀られている英霊塔があります。
かつての私は、ご先祖供養やお墓参り、目に見えないもの、過去の存在といったものを、完全に遠ざけて生きてきました。20代前半までは、自分のご先祖(おじいちゃん、おばあちゃん)のお墓参りすら一度も行ったことがありませんでした。
しかし、「過去があって今がある」ということを学び、腹の底から理解してからは、過去と自分のつながりを意識し、心から感謝し「ありがとうございます」と手を合わせるようになりました。
こちらの英霊塔で手を合わせている人を、私はほとんど見かけたことがありません。「変な人に思われないかな」と心配になることも正直あります。それでも、「日本人として、日本を守ってくださった先人への感謝を捧げる」という信念を、ただ静かに貫いています。
神仏と同様に、英霊や先人、故人といった「過去とのつながり」も、戦後教育の中で断ち切られてしまったものの一つだと感じています。
聖徳太子碑に手を合わせる理由
日本人にとって、最も崇高な思想家であり政治家の一人が聖徳太子だと、私は考えています。その功績については、別途コラムで書く予定です。
ここでお伝えしたいのは、過去の偉人や先人を顕彰し、敬い、感謝する心の大切さです。地域には、昔の人々が守り大切にしてきた石碑が、今も静かに眠っています。
もし自分が忘れられたり、蔑ろにされたら、きっと寂しい思いをすると思います。それと同じように、過去の先人が大切にしてきたものに意識を向け、手を合わせることを大切にしています。
この聖徳太子碑も、人目につきにくい場所にひっそりと佇んでいました。だからこそ、見つけ、意識を向け、手を合わせることに意味があると感じています。
自然に触れるということ
自然に触れることは、「生きている」ことを実感し、日本人であることを思い出させてくれます。
日常生活の中では、イライラや嫉妬といった感情、私利私欲に囚われがちですが、自然の中に入り五感を使って感じることで、心と精神にこびりついた垢が落ちていく感覚があります。
太古の日本では、神社に限らず、自然そのものに手を合わせていました。水による禊、風による祓い。自然には確かな浄化作用があります。
都市生活の中で自然との距離が広がるにつれ、人間の感性も鈍っていく。角田忠信先生の研究によれば、日本人は自然音や虫の鳴き声を左脳で処理し、言葉と同じものとして受け取るとされています。
つまり、自然と人間、動物が区別なく一体(大宇宙の中で根源を同じくし、みな尊いもの)であるという感覚が、「八百万の神々」という日本独自の信仰を生んだのだと考えさせられます。
日本人と自然は切っても切り離せない存在です。そこから乖離した生活が、生きづらさを生むのも当然なのかもしれません。
おわりに
日本人として、日本人らしい生活習慣の中で過ごせることは、とても自然で、そして有難いことだと感じています。
日常のすぐそばに、神社があり、先人があり、自然がある。そのことに気づき、手を合わせ、感謝できる今の生活を、大切に生きていきたいと思います。
豊かな島づくり
豊嶋純平
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